「・・・飛んでみたかったんだ」
眼下の光に視線を落として、彼が呟いた。
特に意味もなく、沢田綱吉は夕暮れの教室に独り居残っていた。
こうして独りで夕暮れの教室にいることは、よくある。
昼間の喧騒から逃れて、静寂の中に自分が独り。
実は静寂が好きだということは、家庭教師であるリボーンしか知らない。
「其処の君、帰宅部の下校時刻は、とっくに過ぎてるよ」
「うわ、ひ、雲雀さん!」
この学校の制服ではない、だがこの学校に存在している漆黒の制服に身を包んだ少年が、扉付近に佇んでいた。
「何だ、君か」
「す、すいません。すぐに帰ります」
「いいよ、君なら。特別に、許す」
いつもの鋭利な刃物のような眼差しは、何故か自分の前では緩むような気がした。
そして自分はというと、彼こと雲雀恭弥を前にすると、心に霧がかったような違和感を感じる。
「こんな時間に何をしてたの」
「あ、えと・・・」
何と説明をしたらいいのか分からなくて、綱吉は言葉を濁した。
何を言っても、呆れられてしまいそうな気がする。
いつの間にか雲雀は、自分の目の前に移動していた。
「君があの草食動物達といないなんて、珍しいね」
「そ、そうです、ね」
「群れられるよりはマシ、だけど。・・・何か、あった?」
漆黒の瞳に、自分が映っている。
思わず綱吉は雲雀から視線を逸らしてしまった。
「・・・ほ、本当に時々、なんです、けどッ、・・・独りで、静かに過ごしたい時が、あって・・・」
「・・・・・」
「だけどあの2人は、と、特に獄寺君なんかは俺から片時も離れてくれない、し・・・」
何も言わない雲雀に不安になって、綱吉はふと視線を上げた。
やはり雲雀は此方を見ていて、だがその表情に呆れやうんざりした感じは、ない。
「・・・だから、時々リボーンが見計らって、こうして独りにしてくれて・・・」
「・・・そう」
綱吉の前の席に座った雲雀は、突いていた頬杖を解いた。
「心配してた。・・・あいつらが君を傷付けたんじゃないかって」
「え、ええっ!?」
「でもそれは僕の杞憂だったようだ」
音も立てずに立ち上がった雲雀を、綱吉は見上げる形になる。
「君が、君自身が選んだ彼らなんだから、君を裏切るはずがないか・・・」
「え?」
「なんでもないよ」
ふい、と雲雀は綱吉に背中を向けた。
窓の外の世界は、暗くなり始めている。
そろそろ帰ろうと、綱吉は机の横にかけてあった鞄に手をかけた。
「あの、俺、帰ります・・・!」
「・・・君、帰り一人なの?」
「そ、そうです、けど・・・」
ふうん、と雲雀は思案気に腕を組んだ。
しばらくして、雲雀は自身の黒い携帯を開く。
電話をするなら・・・と立ち去りかけた綱吉の肩を掴んで。
「・・・もしもし赤ん坊かい?」
「(り、リボーンに電話してるー!!?)」
「君の生徒をちょっと借りたいんだけど」
「(え、ぇえっ!?)」
パニックに陥る綱吉を尻目に、雲雀はリボーンと会話のやり取りをしている。
「(俺このまま一体、どうされちゃうんだろう・・・?)」
彼の心の声に答える者は、残念ながらいなかった。
「(ほ、細い・・・!)」
俺より細いんじゃないのー!!?
綱吉は衝撃を受けた。
腕を回した其れは、見た目以上に華奢で。
もしかして拒食症なんじゃないかとか、綱吉は更に衝撃を受ける。
「どうかした?身体が熱いけど」
「い、いえ!!」
会話が中断される。
彼らが乗ったバイクが、勢い良く走り出したからだ。
君に見せたいものがあるんだ
雲雀のその言葉が発端だった。
断る理由がないし、何よりリボーンが其れを了解してしまったのだから仕方がない。
こうして、今に至る訳である。
予想外の雲雀の腰の細さに、思わず息を呑んでしまった。
「(凄い、な・・・!これ多分筋肉なんだ・・・!)」
何を食べれば、こんな体付きになるんだろう。
しかし綱吉は沈黙を守っていた。
「・・・とにかくもう、学校や、家には、帰りたくない・・・」
「(え!?雲雀さん!?)」
思わず耳を澄ます。
「盗んだバイクで走り出す、行き先も解らぬまま・・・」
「(15の夜ー!!盗んだバイクって、ぇえっ!?)」
バイクが停止した。
信号が赤になったからだ。
実の所、雲雀が信号無視するのではないかと綱吉は考えていたのだが。
「(行き先も解らぬままって・・・、本当にそうだったらどうしよう・・・!)」
「・・・あ、安心して。行き先は決まってるから」
「え、あ、そ、そうですか・・・」
急にそわそわしだした綱吉に気付いたのか、雲雀が口を開いた。
「どうかした?」
「・・・あの、続き歌わないんですか・・・?」
「ああ、分からなくなった。君、分かるの?」
「え、えっと、・・・“暗い夜の帳りの中へ”だったかと・・・」
へぇ、と雲雀は感心する。
「君って、こういうの知ってるんだ」
「いや、この曲は一番の歌詞くらいしか分からないんですけど・・・」
「ふぅん」
雲雀がふと微笑んだ気がしたのだが、信号が青になってしまったので、確認が出来なかった。
しかしどうやら雲雀は、バイクに乗っていると機嫌が良くなるらしい。
何故だかは分からないが、張り詰めた空気が今は、ない。
「(あ、やば・・・)」
額が肩甲骨に当たってしまった。
大丈夫だろうかと様子を伺うが、どうやら気にしていないようだ。
ふぅ、と溜息を吐き、綱吉は骨張った雲雀の背中を見つめた。
「(あ、そうか・・・)」
唐突に、解った事がある。
人一倍肉付きの良くない雲雀の背中は、恐らく綱吉の出会った誰よりも骨張っているのだ。
だから彼の肩甲骨は、
「(“翼の跡”に見えるんだ・・・)」
もしかしたら雲雀は、バイクに乗って風を切っているその瞬間、飛んでいる気分を味わっているのかもしれない。
今まで恐怖の対象でしかなかった雲雀の、子どもらしい一面を見た気がして、綱吉は何だか嬉しくなった。
「此処から少し歩く事になるんだけど、大丈夫?もし疲れているなら、僕がおぶってもいいけど」
「い、いいえ!だ、大丈夫、です!」
辺りはすっかり暗かった。
時計を持たない綱吉に時間を知る術はなかったが、恐らく6時は回っているだろう。
「そう。足場が多少悪いから、気を付けて」
「は、はい・・・!」
結構山の上だな、と綱吉は独りごちた。
こんな所に、一体何があると言うのだろうか。
「ねえ沢田」
「な、何でしょう・・・?」
「君、この町に何年住んでるの?」
綱吉は逆算した。
もしかしたら幼い頃に引っ越してきたのかもしれないが、如何せん記憶が曖昧だ。
「良く憶えてないんです、けど・・・10年は居ると思います、よ」
そう、と言って、雲雀は綱吉を振り返った。
「じゃあこの町を、上から見下ろした事は、ある?」
「いえ、ない、です」
雲雀は嬉しそうに頬を緩ませる。
意味を掴みあぐねた綱吉は、思わず頭上に疑問符を浮かべてしまった。
構わない、と言った風に、雲雀は続ける。
「目を閉じて」
「え、あの・・・?」
「いいから早く。咬み殺すよ」
「うあ、は、はい・・・!」
こんな所で使うのか、そのセリフを・・・!
綱吉は心の中で突っ込んだ。
「18時59分・・・後28秒・・・」
「?」
どうやら時間を計っているらしい。
段々に19時に近付いていく。
「残り10秒・・・。5・・・4・・・3・・・2・・・1、目を開けて」
「・・・!?」
一瞬、何が起こったのか解らなかった。
辺りは薄暗かったはずなのに。
「灯りが点いて、・・・綺麗だろ?」
「す・・・凄い・・・!」
見下ろす街が、とても綺麗だった。
こんな夜景スポットがあるなんて、全く以って知らなかった。
「学校から近い夜景スポットでは、此処が一番なんだよ。もう少し離れた所にも、もっと良く見える場所を知っている」
そっちの方は、機会があったら見に行こうか。
雲雀は満足気に言った。
「・・・雲雀さんって、高い所好きですよね?」
「どうして知ってるの」
「いや、・・・こうして凄く綺麗な所を知っているし、昼寝の場所は屋上だって聞きました、し・・・」
「ふぅん。君って結構鋭いんだね」
眼下の輝きに視線を落として、雲雀が呟く。
「・・・飛んでみたかったんだ」
やっぱり、と綱吉は思った。
「だから僕は、君の言う通り高い所が好きだし、自転車なんかよりバイクが好きだ。本当は鳥に生まれたかったくらいに」
下手に相槌を打つよりも、黙って聞いていた方が良いだろう。
・・・彼がそうしてくれたように。
そう判断した綱吉は、沈黙を守る事にした。
「でもこうして人間に生まれ落ちてしまった以上、僕は地上で空を見上げて生きるしかない。・・・だけど」
言葉を切り、綱吉を振り返る。
「僕は気付いたんだ。・・・人で、良かったんだと」
どういう意味だろう。
綱吉は首を傾げた。
「沢田綱吉」
「は、はい・・・!?」
「君に、出逢えたから」
「そ、それは、ど、どういう・・・?」
雲雀が薄く笑う。
「さあね」
「えぇ!?」
「帰ろうか、送っていくよ」
雲雀はスタスタとバイクの方へ向かって行ってしまった。
「ま、待ってくださ・・・!」
綱吉も慌てて雲雀の後ろを追いかけた。
翼を求める者
僕にはもう、翼なんか要らない。
君を、この地上で見つけたから。
(2007.12.25 / 皮肉な運命で20のお題)